神日本磐余彦天皇(かむやまといわれひこのすめらのみこと)は諱(ただのみな)(実名)は彦火火出見(ひこほほでみ)という。天津日高日子波限建鵜草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の第四子として生まれた。母は海神豊玉彦(わだつみとよたまひこ)の二番目の娘の玉依姫(たまよりひめ)である。
(作者注)
神日本磐余彦天皇の漢風諡号は神武天皇。漢の表題には「神日本磐余彦天皇 神武天皇」となっているが、これは写本するときに付け足されたものだと思われる。よって作品中にはこの呼び名は出てこない。以下登場する天皇も同様。玉依姫の姉である豊玉姫は天津日高日子波限建鵜草葺不合命の母にあたる。くわしくは巻二の第6話と第七話を参照して下さい。
天皇(すめらのみこと)は生まれながらにして聡明で気品があった。15歳で皇太子となった。さらに成長したとき日向国吾田邑(ひむかいのくにあたのむら)の吾平津媛(あひらつひめ)を娶って妃として、手研耳命(てきしみみのみこと)をもうけた。
(作者注)
昔は天皇と書いて「すめらみこと」と読んだ。皇后は「おおきさき」、皇太子は「ひつぎのみこ」。どの時代までこの読み方が使われたのかは、はっきり解っていない。一説には孝謙天皇の時代に藤原仲麻呂の発案で変えられたのではないかといわれている。以後、神日本磐余彦天皇が即位するまでは、本編では磐余彦尊と記載する。
45歳になったとき兄弟や子供達に言った。
磐余彦尊> 昔、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)と天照大御神(あまてらすおおみかみ)が、この国を曾祖父である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に授けた。このとき世はまだ栄えておらず、明るさも十分でなかった。その暗い中にあってこの国を治めて代々父祖の神々は善政をしき、恩恵が行き渡った。皇孫が降臨してから、1719万2470年余りになる。しかしまだ葦原中国(あしはらのなかつくに)全土にそれが行き渡っているわけではない。
磐余彦尊> また塩土の翁(しおつちのおじ)に聞くと、東の方に良い土地があって青い山が四方を取り巻いているという。その中に天の磐舟に乗ってとび降りてきた者があるという。私が思うにその土地は、きっと国の中心地であり大業を広め天下を治めるのによいだろう。たぶんその地にとび降りてきたのは饒速日(にぎはやひ)であろう。そこに行って都をつくろうと思うがどうか。
諸皇子> 我々もそう思っていたところです。早速実行に移しましょう。
この年は太歳の甲寅(たいさいのきのえとら)だった。
(作者注)
太歳は古代の暦。また伊耶那岐尊、伊耶那美尊から神日本磐余彦天皇までの系図をこちらに示しておく。
その年冬の10月5日、磐余彦尊は自ら諸皇子、舟軍を率いて東征に出た。速吸之門(はやすいなと)(豊子海峡)に着いたとき、一人の海人が小舟に乗って通りかかった。磐余彦尊は呼び寄せて尋ねた。
磐余彦尊> お前は誰か。
海人> 私は国神(くにつかみ)で珍彦(うずひこ)と申します。曲浦(わだのうら)で釣りをしておりました。天神の皇子が御出になっておられると聞いてお迎えに参りました
磐余彦尊> お前は我々の道案内を頼まれてくれるか。
珍彦> 御意。ご案内しましょう。
磐余彦尊は珍彦を舟に招き入れ水先案内を命じた。そこで椎根津彦(しいねつひこ)の名を与えた。筑紫国の宇佐(うさ)に着いたとき宇佐津彦、宇佐津姫の宮に招かれた。このとき宇佐津姫を侍臣(おもとまえつきみ)の天種子命(あまのたねのみこと)に娶せた。
11月9日筑紫国の岡水門に着いた。
12月27日安芸国に着いて埃宮(えのみや)に入った。
翌年乙卯(きのとう)春3月6日に吉備国に移り行館(かりのみや)を造って入った。これを高島宮という。三年の間に船舶と武器、食糧を蓄え、一挙に平定に臨もうと考えた。
戌午(つちのえうま)の年の春2月11日に磐余彦尊率いる軍はついに東征に向かった。舳艫(じくろ)相次ぎ、まさに難波碕(なにわのみさき)を目前にしたとき急に流れが速くなり予定より早く着いた。そこでこの地を波速国(なみはやのくに)と名付けた。
(作者注)
波花とも言う。今、難波というのは、この呼び名がなまったものだとの記載がある。
3月10日川を逆上り河内国の草香村(くさかむら)(日下村)の青雲の白肩津に着いた。