磐余彦尊(いわれひこのみこと)は3月7日に詔して言った。
磐余彦尊> 我々が東征に出てから六年が経った。天神の御威光のおかげで、凶徒は制圧することが出来た。しかし周辺の地はまだ平定されたわけではない。残りの災いはなお多いが内州(うちつくに)では騒ぐ者もない。皇都(みやこ)をひらきひろめて御殿を造ろう。
磐余彦尊> いま世の中はまだ開けていないが、民の心は素直である。人々は巣に住んだり穴に住んだり、未開の野蛮な風習が変わらずある。
磐余彦尊> そもそも聖人が制(のり)を立てて、道理が正しく行われる。人民の利益となるならば、どんなことでも聖人が行うものといって間違いない。今、山林を切り開き宮室を造って謹んで尊い位について人民を安ずことが聖人のなすべきことだ。上は天神の国を任せて下さった御恩に答え、下は皇孫の正義を育てられた心を広めよう。
磐余彦尊> その後国中を一つにして都を開き、天下を一つの家とすることは素晴らしいことではないか。見ればかの畝傍山(うねびやま)の東西の橿原の地は、思うに国の真中(もなか)だろう。ここに都を造ろう。
そしてこの月、役人に命じて都造りに着手した。
庚申(かのえのさる)の年の秋8月15日、磐余彦尊は正妃を立てようと考え、貴族の女子を探した。そのとき姫蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)という娘を見つけた。
この娘は、事代主神が、三島溝橛耳神(みしまみぞくいみみのかみ)の娘の玉櫛媛との間に生まれた子で容色優れた人物であった。これを聞いて磐余彦尊は喜び、9月24日姫蹈鞴五十鈴媛命を召して正妃とした。
辛酉年(かのとりのとし)の春1月1日、磐余彦尊は橿原宮(かしはらのみや)で即位した。この年を天皇の元年とした。また正妃を尊んで皇后とした。
(作者注)
現在の建国記念日はこの日を計算して制定されている。
皇后は皇子の神八井命(かむやいのみこと)、神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を生んだ。それで古語にもこれを称えて次のようにいう。
「畝傍の橿原に、宮柱底磐(みやはしらしたついわ)の根の太立て、高天原に搏風峻峙(ちぎたかし)りて、始馭天下之天皇を、号けたてまつりて神日本磐余彦火火出見天皇と曰す。」
(畝傍の橿原に、御殿の柱を大地の底の岩にしっかり立てて、高天原に千木高く聳え、始めて天下を治めた天皇を名付けて神日本磐余彦火火出見天皇と申す。)
始めて天皇が国政をおこなう日に、大伴氏の先祖の道臣命(みちおみのみこと)が、大来目部(おおくるめべ)を率いて密命を受け、諷歌倒語(そえうたさかしまごと)で災いを祓いのぞいた。倒語の用いられたのはこれが始めだった。
(作者注)
諷歌倒語とは諷歌は他の事になぞらえてさとす歌で、倒語は相手に分からないよう味方にだけ通じるように話す言葉。
2年春2月2日、天皇は論功行賞を行った。道臣命は宅地を与えられ、築坂邑(つきさかむら)に屋敷を宛い、特に目をかけた。また大来目(おおくるめ)を畝傍山の西の川辺に住まわせた。いま来目邑(くるめむら)と呼ぶのはこれがいわれである。さらに椎根津彦(しいねつひこ)を倭国造に、弟猾(おとうかし)を猛田邑(たけだのむら)の県主(あがたぬし)に、弟磯城(おとしき)を磯城の県主に、剣根(つるぎね)という者を葛城国造とした。
また八咫烏(やたのからす)にも賞を与えた。その子孫は葛野主殿県主(かずののとのもりあがたぬし)がこれである。 4年春2月23日、詔して言った。
磐余彦尊> 我が皇祖の霊が天から眺められて我が身を助けてくれた。今、多くの敵を総て平らげ天下には何事もない。そこで天神(あまつかみ)を祀ってお礼申しあげたい。
そこで、神々の祀りの場を、鳥見山の中に設けてそこを上小野(かみつおの)の榛原(はりはら)、下小野(しもつおの)の榛原という。そして高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)を祀った。
31年夏4月1日、天皇の御巡幸があった。腋上(わきがみ)のほほ間の丘に登り国の形をながめて言った。
磐余彦尊> なんと素晴らしい国を得たものだ。狭い国ではあるが、蜻蛉(あきつ)がとなめ(後尾)しているように山々が連なり囲んでいる。
これによって秋津洲(あきつしま)の名が出来た。
昔、伊耶那岐尊(いざなぎのみこと)がこの国を名付けていった。
伊耶那岐尊> 日本は心安らぐ国、良い武器が沢山ある。勝れていて良く整った国
また大己貴神(おおあなむちのかみ)が言った。
大己貴神> 玉牆(たまかき)の内つ国。
饒速日命(にぎはやひのみこと)は、天の磐舟に乗って大空を飛び廻り、この国を見て降り立ち名付けていった。
饒速日命> 空見つ日本(やまと)の国。
(作者注)
玉牆の内つ国とは美しい垣のような山に囲まれた国という意。また空見つ日本の国とは空から見てよい国だと選んだ日本の国という意。
42年春1月3日、皇子の神渟名川耳尊(かみぬなかはみみのみこと)を立てて皇太子(ひつぎのみこ)とした。
76年春3月11日、磐余彦尊は橿原宮で崩御した。年127歳であった。
翌年秋9月12日、畝傍山の東北の陵に葬られた。
(巻三 神日本磐余彦天皇 完
巻四へ続く)